top of page

  瞳の輝き

 

 

東京に来てほんとうによかった、私は幸運だと思う時があります。それは、私の目を見つめる人々の目の中にキラキラとした瞳の瞬きをみつける時。ああ、今ここに生きていてよかったと感じます。ここで私のサットサンを持つことができ、瞳から輝きを解き放っている人たちがここに集まる。私はなんと幸運なのでしょう。

 

 これほどたくさんの輝く瞳を見たことは、今までに一度だけしかありません。それは私がインドのラックノウで、初めて参加したパパジとガンガジのサットサンでした。そこへ着いたとたんに、二人の目の中にあるその輝きを私も得たい、と願いました。しかしまだ私自身の準備ができてはいませんでした。とても欲しかったけれど、直ちにかなうというわけにはいきませんでした。それでも私の瞳に輝きを得るまでは、決してそこを離れないと心に決めていました。そして6週間の滞在中に、私の目の中の霧が片方ずつ徐々に晴れていくのを観察していました。同時に私のハートは舞い上がっていきます。なぜならもう間もなくきっと私に順番が回ってくるのを知っていたから。具体的にいつかわわからないけれど、疑う気持ちは微塵もありません。私のハートそして瞳はもうすぐ彼らと同じところへ行けるのだから。

 

 さて、何が瞳を輝かせるのでしょう?何も特別なものはありません。それは全くの不在なのだから!そう、ここがポイントです。エゴが感情を永続させてしまうと目の前のビジョンが曇ります。真実を見ることや、本当の自分を知ることから遠ざけてしまいます。それでもいったんエゴの正体に気づくことができて、真の経験からのアイデンティティーが見つかれば、恐れ、猜

心、不安など私たちを幻想の中へと押し込めてきた、もやもやした雲のような信念や態度は、瞬く間に消え失せるのです。よく瞳は心の窓といわれますが、真我は客観的に瞳を見ればすぐにわかる、というようなものではありません。ですが、実際に今、より多くの人々の目の中に真我の本質を見ることができます。英語で〝悟り〟を表す語はen-lighten  ですが、en(増す)lighten(光をともす)というように、あなたが灯りをつけ輝く準備はもう整っています。真我がそれ自身を開放する時、人々の思考を制限しているエゴが、もう窒息しそうだと最後のあがきをしているのを私はいま、目撃しています。

 

 師の存在の中にエゴは存在しません。師についてそうでない人と唯一の特性は何かというと、しっかりと根づいた状態で、真我に揺らぎがないということです。もしもエゴがまだ存在するならば、そしてその信念、欲望、世間体のためにやるべき課題などを抱えているのならば、その信念や、そして神の創造物としてのあなたの存在を作り替えるように教えなさい。それでもその支配力が、誤解というエゴの倉庫にまだストックされているかもしれない。完全にエゴを手放し、“真我の意志と、すでに知っている”と認識することが、「一人の個人」を「師」へと変容させるものです。ただ、それだけの違いなのです。

 

 私が東京で行うサットサンの中でそのような師の存在である人の瞳に輝きを見るとき、それを表現する言葉は多くはありません。人々が輝く瞳をその場へ運んできてくれると同時に、その顔には笑顔が映し出されています。彼らは私自身であり、私はまた彼らなのです。ここでは平和と喜び、そしてただひとつの真我、それだけを共有するのです。

 

 先日6月20日に行われたラジカル アウェイクニングでは、15組(15人)の輝く瞳が会場を後にするのを見送ることができました。サットサンでまた会えるのを楽しみにしています、そして周りの人に光を灯してあげてください。日本にこの恩寵をもたらしたサットサンの仲間はなんとありがたいことでしょう!

 

 

Papaji's sparkling eyes

 

bottom of page