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ただ一度の覚醒体験、それだけでいいのす

 

 

 

一度でも真我体験をすることで、あなたの世界観がまったく永続的にシフトしてしまいうということがあります。しかしまたは人によっては、それはただ単に一度のスピリチュアル体験をした、と捉えるかもしれない。なぜそのような両者の違いが生じるでしょう?それはあなたに自分の覚醒体験を疑う気持ちがあるかないか、その違いです。

 

あなたの中に疑念が現れると、たった今あなたが得たばかりの“ああ、これだったのか”(ア・ハー体験という言い方をします)を、マインドが台無しにしてしまう。そんな時にするべき事はマインドのおしゃべりを完全に無視するか、その観念に対して「自問」してみること。さもないとせっかく最初に得た覚醒の感覚をまたやり直さなければならないでしょう。疑うというエゴのもくろみを許してしまうことは、パーソナル ストーリーに潜んだ“考える者と行う者”という役割を再び許してしまうのです。

 

明晰な覚醒意識においては、猜疑心の余地はまったくありません。もしあなたが真実だと思っていた夢は実は不適切だったと思い直したり、疑いの気持ちが覚醒したはずのマインドに入り込んできたとしたら、あなたの最初の気づきはまだ岩のように強固ではないという証拠です。しかしあなたが油断なく「自分への問いかけ」を続けることで、速く強固な信念へと転換することができます。その作業を怠ってしまうと、次の覚醒体験の機会まで待たなくてはならないかもしれません。あなたがすっかり覚醒しているならば、もはやマインドがそれ自身の思考と感情を使ってあなたを捉えることはできません。

 

マインドとは個人の夢を存続させるさまざまな思考の塊のようなものです。あなたがマインドの言うことを無視すれば、猜疑心はどうなるでしょう?それは消え去ります。では疑うその者自身はどうなのか?もはやそこに疑う“者”は存在しません。疑う気持ちとその者は「何もない、誰もいない」その中へと溶けていくのです。

 

覚醒その瞬間に、あなたの思考の中にあった関心は消滅します。そのような関心はしばらくの期間、現れたり消えたりを繰り返すかもしれませんが、もうそんなことはどうでもよいのです。あなたがその関心にかかずらっていると問題を引き起こしますが、忘れてはいけないのは、あなた自身に、かかずらわるか否かの自由意志が委ねられているということ。あなたが選んで関わるか、それとも、何となくそこに存在する気づきの中に留まるのかという選択をするか。あなたがシンプルにやって来てはまた去っていく思考を、止めようともせずに観察すれば、それはもう煩わすことを止めます。それに気づいたならば、クスクスと笑って観察してごらんなさい。

 

ラジカルアウェイクニングが起きたならば、その瞬間に目覚めたのです。その次の作業は、その新たな気づきを自分の生活の中へと取り入れて深めていくことです。身体と心を眺め、その過去や未来の思考にとらわれることなく、そしてたった今の思考にさえとらわれずに。そこに感情があるならばたっぷりと感じとり、その感情を変えようとか軽減しようなどとすることなく、ただそれらのペースで自ら燃え尽きるままに任せなさい。

 

ただ、意見やあれこれ言わずにすべて起こることを迎え入れなさい。それが肯定的、否定的であっても全てそれはエゴの思考であり、真実ではありません。

 

自然なままでいること。自然な状態はあなたの自信と謙遜がバランスの取れた状態です。そのどちらか極端に偏っているとしたら、それこそがエゴの現れです。

 

あなたが内で完全な静寂にあるとき、あなたの身体に何かが起きたり周りの環境にかかわらず、あなたが他者に覚醒体験を教えなさい、という呼び声があるかもしれない。もし目覚めた「あなた」の存在が消え去っているならば、あなたの真我がそれを他者に教えることができます。目覚めた者の全てが覚醒について教えることができるわけではない。あなたにその準備ができたかどうかのサイン、それは完全なる静かなマインドがあるかどうかです。

 

毎瞬毎瞬、本当の自分でいること。そして悟りへの道を愉しむこと。それこそがすばらしきことなのです。

 

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