​© 2017 Aruna Byers, Awakening Coach

 

  • w-facebook
  • Twitter Clean
  • w-googleplus

Satsang schedule:  Please make a reservation

   

July 15 (Sun.)   Dendo Juku Ctr., Mita Bldg., Meguro  1:30-3:45   3,000 yen

July 29 (Sun.)  Kyobashi Kuminkan, Kyobashi  2:30-4:45    3,000 yen

August 11 (Sat)   Dendo Juku Ctr, Mita Bldg. Meguro  

August 26 (Sun.)  Kyobashi Kuminkan, Kyobashi

 

エゴの意見や信念が、自分の人生に影響を与えているあいだは、心はかき乱され続けることになります。心がかき乱されると、今起きている何かが原因のように思われるかも知れませんが、決してそのようなことはありません。心がかき乱されたなら、それは必ず、過去に未解決の課題があるということです。 

 

 

 

 エゴ/人格のとらえる世界は、真の現実ではありません。あらゆる場面で、自分がしめす反応は、自分の信念に基づいた反応です。そして、信念はこれまでの経験をもとに形成されるものであり、過去世において形成されたものである可能性すらあります。たとえば、犬というのは怖いものだと信じていたとしたら、どんな犬を相手にしても心が休まることはありません。その犬が、純粋に愛そのものの表現であるような相手であったとしても同じことです。もし自分が、自分のことを犠牲者だと信じていると、そのような見方しかしなくなります。自分が苦悩しているのは、自分自身がそう信じているが故のことだと分かっても良さそうなものなのに。自分が何かを信じていて、誰か別の人がその反対のことを信じていると、私たちは自分の見方や考え方に、しがみつく傾向があります。そして、自分の考えこそが『正しい』と証明するために躍起になることもあります。エゴとは、そのように働くものなのです。

 

 エゴが体験しているのは、その無意識の刷り込みに合致する見方や考え方がもとになった世界です。エゴは、自分の好きなこと好きでないことや、受け入れられること受け入れられないことが分かっていて、大抵は、自分の無意識の刷り込みと相容れないことはなんでも『回避』と書いた箱の中にしまい込んでしまいます。それではせっかくの機会がふいになってしまいます。自分の心が波立つようなことというのは、本当は、意識の目覚めや覚醒の深化のために役に立つかも知れないのですから。

 

 自分の賛同できることではないからと、誰かのすることに判断をくだすとき、エゴはかならず優越的な態度を取ります。相手に自分の考え方を押し付けるのは、傲慢であり礼を失しています。十分に本質と一体になっている人は、自らの思考や行動を含むこの世の状況のすべてを、偏りのない観察者の視点からみています。つまり、あらゆる見方考え方というのはエゴの刷り込みがもたらすものであり、そこには絶対的な真実など一切存在しないということが、よく分かっているのです。

 

  波立ちをとりのぞく

 自分の心を波立たせる原因をとりのぞくためには、それがどのようなことであっても、まず取り組まなくてはならないことがあります。それは、責任を負うこと、つまり自分の心がかき乱される原因は、すべて自分から出発していることなのだという自覚をしっかり持つことです。かき乱されている心はあくまで自分の心なのですから、そのご機嫌を取るために何かが変わらなくてはならないなどということはありません。次は、そのとき自分の中に生まれた感情を抑え込まないことです。それがどのような感情であったとしても、十分に感じなくてはなりません。いま挙げたふたつのことを、その具体的状況について考えをめぐらせることなく、実行することができたなら、自分に生じた反応が身体を通り抜けていくにつれて、自分の心を波立たせていた原因は雲散霧消して行きます。そうして負に傾いていた電荷が消えると、その状況がクリアにみえるようになり、その状況を通して自分が何を得られたかが分かってきます。それが分かるのは、自分の考え方が、中庸の、好奇心に満ちた状態に変化するという、ただそれだけことが起きたからです。

 

 人生に対するエゴのないアプローチは、すべてを包み込み含むものです。どのような状況についても白黒をつける二元的なアプローチを選択すると、対立的になります。たとえ自分がその考えには賛同しないとしても、他者の考えを尊重することは、愛を表現することです。相手を間違っているとするのとは、違います。 

 

 覚醒した意識で生活するということは、人生がもたらすすべてに対して中庸であるということです。真我(True Nature)は、信念や態度を一切持ちません。故に、かき乱されることはありません。人として身体を持って生活しているかぎり、個人の好みは存在します。私たちはひとりひとりが、その人のやり方で聖なる光を世界にもたらしています。そのひとりひとりに適した好みがあるのです。誰かが他の誰かより正しい、あるいは正しくないなどということはありません。覚醒した状態を考えてみれば分かります。人間の抱くどんな好みに対しても、それに入れこむ『人』というのが、そもそも存在しないのですから。完全な柔軟性は、覚醒した意識の特徴のひとつです。 

 

 もし自分が、覚醒体験はあるけれども、誰かのしていることや何らかの出来事(人生が自分の意識にもたらしたこと)によって、依然としてかき乱されることがあるのなら、それはまだ覚醒を深める必要があるということです。波立つ心はすべて、未解決の問題に気づく必要があるということを知らせているに過ぎないのです。ひとのせいにするのではなく、波立つ心の責任を自分で担うのです。そうすれば、これまでの刷り込みを精算できるでしょう。それができれば、それ以上エゴが自分を感情で操ることはできなくなります。 

 

 波立つ心を歓迎してください。その波は、自由への鍵となり得るものです。

 

波立つ心、そのすべてが贈りもの